東京都内および各競技開催地域で大規模な交通規制の影響により、各競技会場の周辺地域を中心に、一時的に荷物のお届けに遅れが生じる場合があります。また、対象地域以外でも一時的に遅れが生じる可能性がありますのでご了承ください。
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江戸末期、新潟県小千谷の
おつまさんが
茨城県古河の立て場茶屋
「松村屋」に嫁にきた。
立て場茶屋の松村屋は
馬方に酒とつまみを出し
帰りには弁当として
お握りを持たせ
職人達にはなくてはならない
茶屋であった。
そのつまみが
「鮒の煮付け」であった。
この鮒の煮付けは
小千谷の冬の食べ物
保存食として一般的な
食べ物であった。
おつまが古河の地で
初めて作ったのである。
鮒は古河近郊でたくさん獲れ
最高の地の利であった。
当時の古河は湿地や
湖沼が多かった。
小さな川が入り組んで
毎年のように洪水に見舞われ
中小の湖沼が生まれ
農業には厳しい自然条件を
強いられていたが
鮒の生息には最適であった。
現在でも当時を偲ぶ
面影は残っている。
「立て場茶屋」であるが
古河は境街道、諸川街道
下妻街道、栃木街道、館林街道の
要衝の地であり
街の入り口には
多くの立て場茶屋が存在した。
当時の立て場茶屋は、街道などで
人夫が駕籠や馬などを休息させ
また、人力車や馬車の
発着所として大変賑わった。
当時、松村屋に出入りしていた
ぬた屋創業者の野村安次郎は
つまみとして出されていた
鮒の煮付けのつくり方を
おつまさんから
見よう見真似で覚えた。
当時は砂糖が貴重品のため
鮒を醤油で
煮たものと聞いている。
安次郎は、酒問屋「坂長」で
結婚式の板前として仕えていたが
その後、現在地に居を構え
後の二代目となる福太郎を授かり
鮒のあらいと
鮒の甘露煮を興した。
鮒の大きいのは「あらい」に
小さいのは「甘露煮」として
店に並べられた。
古河地方では、あらいを俗に
「ぬた」と呼ぶので
「ぬた屋」の名はこうして
生まれたのである。
鮒の甘露煮は街の評判となり
原材料となる鮒の需要は高まった
近郊近在の農家が挙がって
鮒を獲って納めるようになった。
湖沼近くで農業を営む人達は
生活を助けるため天秤棒を担いで
鮒を古河の地まで売りにきた。
遠くは館林、藤岡からの
行商もいた。
後に、自転車で
運搬するようになり
農業収入の不足分を補い
中には、一日三往復する
働き者もいたという